世界遺産 「富岡製糸工場」の歴史を学ぶ


前日、榛名山を登って
前日に榛名山登山をした私たちは、伊香保温泉でまったりして、道の駅「こもち」で車中泊。翌日は、今までなかなか見学する機会がなかった世界遺産「富岡製糸工場」に向かいました。
富岡製糸工場の歴史
明治維新後、富国繁栄・殖産興業を目指した日本政府は、外貨獲得のため生糸の輸出を国策のひとつとして製糸工場を富岡に造ります。官営であり模範工場としての役割を持つ工場を建設するために、西洋の技術を導入した最新の工場に全国から工女を募集。「全国に器械製糸の普及」と「器械製糸を伝習する工女の育成」を目的にフランス人ポール・ブリュナの指導のもと、明治5年(1872年)官営模範器械製糸場「富岡製糸工場」が設立されました。
群馬県富岡に官営模範器械製糸場が設立された理由
- 1.富岡付近は養蚕が盛んで、生糸の原料である良質な繭が確保できる
- 2.工場建設に必要な広い土地を用意できる
- 3.製糸に必要な水が確保できる
- 4.蒸気機関の燃料である石炭が高崎・吉井で採掘できる
- 5.外国人指導者の工場建設に対して地元の同意が得られた
高品質の生糸
富岡製糸工場は長さ140m、300釜の繰糸機は当時の製糸工場としては世界最大規模でした。
それまで生糸は繭農家が「座繰り」と言われる器械で紡いでいました。富岡製糸工場では最新の製紙機械を導入することで生糸の大量生産を可能にしました。そして生産される生糸は世界中で最高級品と認められました。
製糸業の衰退
しかし、生糸価格の低迷や繭不足、化学繊維の普及による需要の低迷、安価な輸入品の増加により日本の製糸業は衰退しました。
昭和62年(1987年)、富岡製糸工場は115年という長い歴史の幕を閉じることになり、平成26年(2014年)に世界遺産に登録されました。
日本の近代化を経済面から支えた富岡製糸工場、貴重な史跡として大切に保存されていまいした。


繭と生糸の展示

器械製糸以前に使われていた「座繰り」


日本髪を結っている工女さんたち
ポール・ブリュナがフランスから輸入したフランス式繰糸器のレプリカです。300人の工女が作業したそうです。
繭糸の長さは1,500mですが、実際に生糸として使えるのは1,300m。すごい長さですね、恐るべし蚕。

自動繰糸機

操業停止後も保存に尽力した片倉工業
富岡製糸場は明治26年(1893年)に三井家に払い下げられ、明治35年(1902年)に原合名会社、昭和14年(1939年)に片倉製糸紡績会社(現片倉工業)と経営母体が変わり、1987年に操業停止しました。
第二次世界大戦時の空襲の被害を受けずに、操業停止後も片倉工業が保存に尽力したお陰で、開業当時のレンガ造の建造物が良好な状態で残っています。片倉工業は「売らない、貸さない、壊さない」の方針を堅持し、巨額の固定資産税やその他維持管理費用は最高で年間1億円以上かかったと言われています。こうした片倉工業の尽力がなければ、富岡製糸工場の世界遺産登録はなかったかもしれませんね。
自分用のお土産に買った物

シルクブラシと桑の葉茶を購入しました。
桑の葉茶はくせがなくて、渋みもなく、美味しいですよ。ノンカフェインなので夜のお茶としても安心して飲めます。きれいな緑色のお茶は老若男女におすすめでーす。

同じものが見つからないのですが、一応桑の葉茶を紹介しますね。
シルクブラシは洗顔用を購入。使い心地はgood。

お土産で売っている蚕の形のチョコレート。ちょっときもかわですね。

まとめ
今までなかなか訪れることが出来なかった「富岡製糸工場」です。中学生の頃、「ああ、野麦峠」という映画を見たり、「女工哀史」という本を読んで、工女の悲惨な長時間労働や結核の蔓延のイメージがあり、見学には二の足を踏んでいました。実際には、当時募集され集まった工女さん達は旧藩主などの格式の高い家柄の出身者が多かったそうです。技術を習得した工女さん達は「富岡乙女」と呼ばれ、出身地に戻り器械製糸の指導者として活躍しました。
そして、昆虫とくに蛾が大嫌いな私ですが、グロテスクな蚕の展示は少なくてホッとしました。
生糸業の歴史を学び、明治政府が総力を結集して建設した歴史的建造物を肌で感じることができる「富岡製糸工場」でした。

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